世界を変えるU33

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MixiCheck

手話×ビジネスで、
聴覚障がい者と聴者の壁をなくす。

大木 洵人(おおき じゅんと)さん
シュアールグループ 代表

大木 洵人

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Interview Q1.どんな問題に取り組んでいますか?

「聴覚障がい者の命に関わる環境を整える。」

—大木さんが代表をつとめるシュアールグループの取り組みを教えてください。

私の知人のお子さんが、夜中の2時に泡を吹いて倒れてしまったことがありました。
でも、知人は救急車を呼ぶことができませんでした。
聴覚障がい者だったため、言葉を知らず話すことができなかったのです。

慌てて、隣の家の駆け込み呼んでもらったそうですが、今の日本で、110番や119番にアクセスできない人がいる。
しかも、その状態が改善されることなく放置されたままということに驚きました。
まずは、この命に関わる環境の整備をどうにかしたいと思っています。

現在、ビデオチャットを利用して、どこからでも手話通訳者とつながることのできる遠隔手話通訳のサービスを展開しています。
パソコンやタブレットPC、スマートフォンからアクセスできるので、必要なときに瞬時に意思を伝えることができます。

また、店舗や窓口に端末を設置するタイプもあり、JRの駅やホテル、役所などにも導入されています。

—少しずつ命に関わる環境整備も進んでいますね。

そして、もう一つ、重要なミッションは、手話の可視化です。

具体的には、手の形と位置から手話を検索できるオンラインの手話辞典、「SLinto Dictionary」というサービスをつくりました。

実は、これまで日本語から手話を調べられても、手話を見てどういう意味なのかを調べる術はほとんどありませんでした。

「今日習ったこの手話の意味はなんだ?」と思っても、来週の授業まで解決できなかったりしていたわけです。

「SLinto Dictionary」は、手話を構成する「位置」「形」「方向」「動作」のうち、まず、位置と形のみから、手話を絞り込みます。

たとえば、お腹の前で右手と左手がパーになる手話だったら、その形の一覧が出てきます。
そして、実際の動画を見ながら、調べたい手話を見つけるという仕組みです。

—手話を学ぶ人にとっては、飛躍的に学習効率があがりますね。

ただ言葉って、いわゆる流行語のような新しい単語も生まれますよね。
これに対応するために、使う人が登録できる仕組みにしています。

たとえば、「エコカー」。
あるユーザーが、「エコカー」の手話はこれがいい、と思って登録します。
それを他のユーザーが評価して、認知されていけば、「エコカー」の手話として普及していく。
もっと適した手話があれば、そちらが認知されるでしょう。
いわば、ウィキペディアみたいなもので、一番適したものが残るわけです。

言語は本来進化していくものです。
もしかしたら、医療関係者だけが使っている手話があるかもしれない。
エンジニアだけが使っている手話があるかもしれない。
オンライン上なら、これまで交わることのなかった人たちも簡単につながることができる。

これが普及していけば、手話がもっと身近になって、いろいろなものに手話がつくようになるかもしれないですよね。
そうなったら、聴覚障がい者向けの商品やサービスが増えるかもしれません。

僕らは福祉の業界だけで活動しているつもりはありません。
聴覚障がい者と聴者との距離を少しでも近づける。
新しい分野の人に手話の可能性を気づかせていくことこそ、僕らの役目なんだと思っています。

遠隔手話通訳(モバイルサイン)は、ビデオチャットを利用した手話通訳です。

Interview Q2.今の取り組みをやろうと思ったきっかけは?

「知ってしまった以上、放っておくことはできない。」

—手話との出会いを教えてください。

中学2年の時、たまたま観たテレビの手話講座が最初の出会いです。

壁に見立てた左の手のひらに、右手がぶつかる。
「この道は行き止まりです」という手話ですが、その状況をとてもよく描いていました。
その時に、「手話って、ビジュアル的で、感覚でわかる面白い言語だなぁ」と思ったんですね。

でも、中学、高校と部活に熱中していて、手話のことは忘れていました。
大学に入って何をしようかと考えた時、ふっと手話が頭に浮かんだんです。

それで友人と一緒に、大学1年の10月に手話サークルを立上げました。
軽い気持ちで始めたのですが、どんどんはまっていきました。

—聴覚障がい者の方の環境や社会福祉へ強い関心が向いたきっかけは?

大学1年生の大晦日に紅白歌合戦に出演したのが、大きな転機になりました。

大学の学部の先輩である歌手の一青窈さんから、母校のアカペラサークルのコーラスに手話もつけたいという依頼があったんです。

そこで、キャンパスで唯一の手話サークルである僕らに話が舞い込んできました。
一青窈さんも、よもや手話歴5ヶ月のサークルだとは思ってなかったでしょうね(笑)。

これを機に、取材をたくさん受けるようになったり、イベントに呼ばれるようになったんです。しかも、その波はなかなか収まらない。
なぜかと思ったら、ほかに手話のネタがないんですよ。
よくよく考えてみると、手話のコンテンツって、極端に少ないんですよね。
手話講座と手話ニュースとドキュメンタリーの3つくらいしかない。

これって、なんかおかしいなと思ったんです。
番組が3つしかないって、ぜんぜん楽しくないですからね。

—手話の娯楽が、ほとんどないわけですね。

ないなら僕らでつくろうと、娯楽をオンラインで配信する団体を立上げたんです。

最初に聾者の俳優さんと一緒に街を散歩する番組をつくりました。
この時にはじめて聾者の人と活動をともにしたのですが、聾者のみなさんが抱えるさまざまな苦労を知り、「110番、119番ができない」ということに気づきました。

この問題は娯楽がない、というレベルの話ではなく、命を守る環境の欠如ですから、社会問題なわけです。
で、なんとかしなきゃと、大学2年生の夏、起業を思いつきました。

—問題に気づいたとはいえ、行動にうつすのは簡単ではありません。

聾者の方の置かれている現実を知ってしまった以上、「あきらめる」という選択肢はなかったですね。

たとえば聾者の友人やその家族が、明日道で倒れてしまったとして、救急車を呼ぶことができずに、命を落してしまったら、それは、この問題を放っておいた僕らの責任だと思うんです。

世界中のゴミを拾うことはできないけれど、目の前のゴミを拾うことはできる。
気づいた人から、やるべきだと思ったんです。

大学時代の手話サークル。最初に集まったのは、10人くらいでした。

Interview Q3.どんな高校時代でしたか?

「戦場カメラマンを目指していました。」

—高校時代は、どんな将来を描いていましたか?

中学2年の時に見た戦場の写真に衝撃を受けて、以来、ずっと戦場カメラマンを目指していました。

それで高校では写真部を立ち上げました。
写真甲子園という全国大会の出場を目指して、囲碁部の友だちを兼部させたりして、なんとか予選出場条件の3人を集めました。
でも、暗室がないどころか、教えてくれる人もいません。

調べると埼玉に毎年全国大会に出場している高校がありました。
メールを送って、写真を教えてくださいと直談判して、電車で2時間くらいかけて通って、直接指導してもらっていましたね。

腕を磨いたものの全国への切符をかけた高校の最後の大会の決勝戦で、その高校に負けてしまったんです。
アマチュアでも全国大会に出場できないレベルでは、プロとしてやっていけないだろうと思ったんですよね。

負けるまでは、ずっと日本大学芸術学部を目指していたんです。写真をやるなら、そこだと。

戦場カメラマンをあきらめたわけではなかったのですが、中2からずっと写真ばかりに熱中していたので、視野を広げるためにも、違う世界を知ろうと思い、一般の大学へ進路を変更しました。

—部活に熱中しながら、留学もされています。

英語が大の苦手だったんです。
高校入学時は、本当にヒドい成績でした(笑)。

でも、戦場カメラマンを目指していたので、英語ができなかったら、戦場で生きていけないと思ったんです。
それで、英語を必死で勉強しました。

英語が少しできるようになってくると、今度は留学したくなってきて。
交換留学でアメリカにいけるチャンスがあるらしい、調べると、ジャーナリズムを学べる学校もある。
それで思い切って、アメリカの高校へ留学しました。
受験勉強真っ盛りの3年生の夏休み直前でした。

—周りは受験まっしぐらですよね。

有名大学を目指している同級生の中で、1人、戦場カメラマンですからね。
受験勉強からも落ちこぼれていましたし、かなり異端児だったと思いますね。

ただ、留学中は楽しかったです。
なかでも、人種というものを実感できたのは新鮮でした。
白人と黒人がいる学校だったのですが、いつもは一緒にスポーツをやっているのに、カフェテリアに入ると、こっちは白人、こっちは黒人とキレイに分かれるんです。
さらに移民は移民で固まっていたり。

外から見ると、仲良さそうに見えるけど、人種の違いというのは確実にある。

現実とはそう単純な話でもないことを知ったと同時に、物事は入り込まないと、真実はわからないんだってことも知りましたね。

アメリカ留学時代。学校の人気投票で、1番に選ばれました。楽しい思い出です。

Interview Q4.高校生のみんなにアドバイス!

「道を間違えたら、また選び直せばいい。」

—大学入学まで、手話とは遠い人生を歩んでいました。

10代の頃は、手話なんて想像もしていませんでした。
でも、写真に情熱をかけていた経験はムダだったのかといえば、そうではないと思います。

留学したのも、起業するためではありませんでしたが、結果的には、英語力が身につきました。
そして、高校入学の時には、一番成績の足をひっぱっていた英語だけで、大学に入ったわけですからね。

意図していなくても、積み重ねてきたものが、人生を切り拓いていくのだと思います。

大切なのは、目の前の夢を必死に追いかけること。
したいと思ったことをやってみる。
ちがったら、変えればいいんです。
僕だって、高校3年生の7月に突然留学したんですから。

やろうか、どうしようか迷うことはあると思います。
微妙な判断になると、人は、失敗したくないから、どちらも選ばなくなってしまうものなんです。
でも、少しでもやりたいなと思うなら、チャレンジするべきです。

まず、行動する。悩みながら、行動する。
そして仲間と支え合いながら、行動する。

ちがったら、そこで選び直せばいい。
後戻りできないことの方が、世の中、少ないですよ。

世の中、後戻りできないことの方が少ないですから、まずはチャレンジです。


大木 洵人(おおき じゅんと)さん
シュアールグループ 代表

・1987年群馬生まれ。26歳(2014年3月現在)。
・慶應義塾大学環境情報学部卒。2008年、大学2年生の時にシュアールを創業。
・聴覚障がい者と聴者の対等な世の中の創造を目的とした手話ビジネスを行う。
・遠隔手話通訳、手話キーボード、手話ガイドアプリなど、ITを駆使した事業を展開。
・米経済誌Forbes注目の若手起業家に日本人で唯一選出。手話通訳士。