写真なら、
世界の無関心を関心に変えられる。
安田 菜津紀(やすだ なつき)さん
studio AFTERMODE所属 フォトジャーナリスト
「世界の問題を人々が知るための、入口をつくる。」
- —フォトジャーナリストである安田さんの取り組みを教えてください
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日本を含めて、国や地域によって、それぞれ抱えている問題があると思います。
ただ、私が絶対的に追いかけているのは、「救える命を、救う」ということです。カンボジアでは、10歳にも満たない子どもたちが公然と売られ、強制的に働かされています。
稼ぎが悪ければ虐待され、命を落とすことさえあります。
また、人身売買だけでなく、感染拡大が止まらないHIVの問題も深刻です。
アフリカでも、同様にHIVの問題は大きなテーマです。
中東では、紛争から逃れてきた難民問題。
東日本大震災であれば、防災をテーマに活動を続けています。社会が抱える問題は、たくさんの人に知ってもらえなければ、「これが問題だ」と扱ってもらえず、放置されたままです。
でも、カンボジアの人身売買の被害者も、紛争下の中東シリアから逃れてきた難民も、困難な状況を強いられる人たちの多くは、ほとんど自分から声をあげることができない立場にいると思います。
フォトジャーナリストである私は、誰かが手を差し伸べれば、救えるかもしれない命を1つでも増やせるよう、世界が抱える問題を、写真を通して世界の人々に発信し続けています。
- —写真は、直接、人を治療できるわけではありません。苦しんでいる人を前に、写真ができることは何でしょうか?
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確かに、HIVの感染者を撮影しても、病気が治るわけではありません。
お腹を空かしている難民を撮影しても、空腹が満たされるわけでもありません。残念ですが、写真で直接的に人の命を救えないことは事実です。
ですが、写真は、現地で活動している人たちの後押しになると思っています。カンボジアのある村で、父親をエイズで亡くし、貧困に苦しむ小さな子どもがいました。
その時、現地で活動しているNGOのスタッフから言われたんです。
「僕らはここで残された子どもを支援していくよ。だから、あなたはこの悲しい現実を世界に知らせてほしい。これは役割分担なんだよ」世界が悲しい現実を知り、世界が動くきっかけをつくる。
人々が「知ることの入口」をつくることが写真の役割だと思っています。写真は、駅のポスターや屋外の看板といった日常の生活のなかに溢れています。
もし、それがいい写真なら、一瞬で人の意識を向けさせることができる。
写真は、人々の無関心を関心に変えることができる強力な手段なのです。「救える命を、救う」ために。世界の抱える問題に無関心な人に、関心を持ってもらえるよう、現地に通い続け、そこで起こっている現実を撮り続けています。
「立ち止まっているこの瞬間も、世界では悲劇が繰り返されている。」
- —フォトジャーナリストの道を選んだきっかけを教えてください。
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16歳の時に訪れたカンボジアで人身売買の現実を知り、日本とのあまりのギャップに衝撃を受けました。
帰国後、カンボジアで感じた経験を周りの人に伝えていましたが、私が受けた衝撃がうまく伝わっているか疑問でした。そして高校3年生の時に見た、1枚の写真が私の人生を変えました。
内戦中だったアフリカ・アンゴラの写真を見た瞬間、足が動かなくなってしまったんです。
ガリガリにやせこけた母親のおっぱいに母乳をすがる赤ちゃん。
この子だけは絶対に守り抜くという強い意志を持った母親の目。
それは、カンボジアで人身売買の被害にあいながら、家族を守るんだと言っていた子どもたちと同じ目でした。そして、大学2年の時に、その写真と運命的な再会をします。
カンボジアに私を連れて行ってくれた「国境なき子どもたち」というNGOの事務所で、その写真を撮った人物、フォトジャーナリストの渋谷敦志さんと出会ったのです。これほど長く私の心を惹きつけ続けていた写真。そして運命的な出会い。
写真なら、カンボジアで感じた気持ちをもっと強くもっとたくさんの人に伝えられると思ったんです。 - —そこから学生として、フォトジャーナリストとしての道を歩み始めたのですか。
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カンボジアにはその後も何度も訪れましたし、他の社会問題にも興味がわき、国内の貧困問題に目を向けたり、中東ヨルダンのイラク難民の実情を取材しにも行きました。
少しずつ雑誌や新聞に写真が載るようになって、このままこの世界に進みたいと思いはじめたものの、学生ですから、技術も足りないですし、仕事のノウハウもありません。
まずは新聞社や通信社に入って、報道カメラマンとして修行しようと思ったんです。渋谷さんには、その後もいろいろとアドバイスをもらっていたので、就職についても相談しにいきました。
すると、「今、写真1本でやっていく覚悟がないなら、この場でやめろ」と言われました。写真やジャーナリズムというものに興味関心があるなら、就職をした方がいいかもしれない。
けれど、具体的に取り組みたいテーマがあるなら、就職なんてしている暇はないというのです。カンボジアはもちろん、その他の社会問題にも直接足を運び、断片的かもしれないけれど、その実情を自分の目で見てきました。
修行のためとはいえ、就職している何年間の間にも、私が訪れた村の人たちはエイズなどが原因で死んでしまうかもしれない。
子どもがまた売られるかもしれない。今、この瞬間も、私が見てきた社会問題が進んでいる。
今まで関わってきた人たちに対して、これからも関わり続けて、何かを変えて行くよう努力するのが、出会った人たちへの誠意ではないかと思いました。そして、就職せずに、フリーランスとして、フォトジャーナリストの道に進みはじめました。
「バンドギャルだった私を変えた、人身売買の現実。」
- —16歳でカンボジアに行きました。元々途上国への興味があったのですか?
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高校2年生の時にカンボジアへ行くまでは海外との接点もなく、社会貢献への興味もほとんどありませんでした。
いわゆるバンギャ(バンドギャル)だったんです。
ビジュアル系のインディーズのバンドが好きで、黒尽くめの服に、ジャラジャラとアクセサリーをつけて、奇抜なファッションをしていました。中学2年の時に父を亡くし、中学3年の時に兄を亡くしました。
家族って、何だろう。人と人との絆って何だろう。
一緒にいられる時間は限られているのに、どうして人は人を傷つけてしまうんだろう。
誰に相談していいのかもわからないまま、答えの見つからない疑問がぐるぐると渦巻いていました。ライブに行けば、何も考えずに夢中になれたんですね。
現実と向き合うことから逃げていたのだと思います。
ライブが終わって、帰り道で友だちと別れて1人になると、私このままでいいのかな?って疑問がまた頭をもたげていました。 - —カンボジアを訪れたきっかけは?
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高校1年生の終わり頃に、ホームルームで「国境なき子どもたち」のプログラムの紹介がありました。
アジアの途上国で、同世代の子どもたちを取材する、という内容でした。
環境の違う同世代の子どもたちは、どんなことを考えているんだろうか、もやもやとしている自分に答えが見出せるかもしれないと思い応募しました。
もう直感でしたね。カンボジアで出会った同世代の子どもたちは、ストリートチルドレンや人身売買の被害者たちでした。
ある男の子は、売られた先で稼ぎが少ないからと罰として電気ショックを与えられ、「僕はその時に涙が枯れ切っちゃったから、もう泣けないんだ」と虐待を受けていた話をしてくれました。
けれど、被害の話以上に衝撃を受けたのは、彼らが自分よりも家族を想う気持ちでした。
自分は施設に保護されていて、食べ物も寝る場所も与えられているけれど、家族は食べ物がないかもしれない、道で寝ているかもしれない。
僕は長男だから、私は長女だから、家族を支えなくちゃいけない。
そのためにすぐにでも働きたい。
そんな言葉が何よりも真っ先に口をついて出てきたのです。こんなにツラい経験をしてるのに、彼らはなんて強いんだろう。
それに比べて、私は家族や周りに対して、なんでもっと優しくしてくれないの、なんで気持ちを理解してくれないの、と自分のことしか守ろうとしていませんでした。
もっと強くならなくてはいけない、と強く思いました。 - —帰国してから、変化はありましたか。
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カンボジアの同世代の子たちとは、好きな人はいるの?彼氏はいるの?と、日本と同じように恋愛の話もしました。
でも、1人だけ話に入ってこない女の子がいたんです。その子は、以前、売春宿に売られた子でした。
そのトラウマで、男の子に近づくことができなくなっていたのです。
そんな事情も知らずに、他の子たちと恋の話をして盛り上がっていたことに、ものすごく後悔しました。私がカンボジアの実情をもっと知っていれば、あんな軽はずみな発言や振舞いはしなかったはず。
知らないことは、人を傷つけてしまう。
だから、人を傷つけないために、知識を貯えようと思いました。それから学ぶ、ということへの意識が変わりました。
具体的な将来の仕事はイメージできなかったけれど、困難な状況からでも、自分の力ではい上がれるような子どもたちを育てたい。
そのために教育を学びたい、という目標ができ、教育学科へ進学しました。
「学ぶことは、偏差値をあげるためじゃなく、心の選択肢を増やすこと。」
- —人生の先輩から高校生へメッセージをお願いします。
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テストや受験に追われて、偏差値をあげることだけが勉強ではなく、こんな価値観があるんだ、こんな世界があるんだ、と心の選択肢を増やし、心を豊かにするために、人は学ぶのだと思います。
もっと自分を豊かにする学びがあるんだということを知ってほしいですね。
そして、それを知る一番の近道は、少し前を走るかっこいい先輩に出会い、声を聞くことじゃないかと思います。
私にとってフォトジャーナリストの先輩である渋谷敦志さんとの出会いは、人生を変えました。
写真がきっかけで出会い、
「この人のように、出会った人たちに真摯に向き合える生き方を私もしたい」
と思ったんです。人との出会いほど、人を変えるものはないと思います。
そして仕事より、生き方を大事にしてほしいと思います。私の人生を変えたのは渋谷さんですが、渋谷さんに出会うまでに、たくさんの人たちにも出会ってきました。
動いたら、動いただけ、いろいろな人に会えるわけです。いろいろ動くことで、道は開ける。
泥臭く、かっこうをつけずに動き続けることが、一番かっこいい生き方なのかもしれませんよ。
安田 菜津紀(やすだ なつき)さん
studio AFTERMODE所属 フォトジャーナリスト
・1987年神奈川生まれ。27歳(2014年3月現在)。
・上智大学教育学科卒。大学時代からフォトジャーナリストとして活動を開始。
・16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情レポーターとしてカンボジアの貧困を取材。
・現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害を取材。
・「HIVと共に生まれる -ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。